ヤマトの時代神様のまじめな話。どのように原型が形成されたのか、
大変興味深いです。
弥生時代においても、帥升や卑弥呼などが倭国王として中国の史料に記されているように、倭国と呼ばれる政治的な結合が存在していた。その結合は必ずしも強固なものではなく、同等の力を持った政治勢力による同盟関係だったと推測されている。しかし、奈良盆地に日本列島における最大規模の政治拠点が構築されていたことが、纏向遺跡の発掘により次第に解明されつつある。倭国王卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地をめぐっては、九州説と畿内説とが並立しており結論は出ていないが、纏向遺跡は邪馬台国の有力な候補地となっており、仮に纏向遺跡が邪馬台国だったとすると、おそくとも弥生時代末期の時点でヤマト王権の原型が形成されていたことになる。
対して、古墳時代に入ると、規格化された前方後円墳が奈良盆地に発生し、急速に九州から東北まで普及していることから、各地の政治勢力に一定の支配力を及ぼしうる政治権力が奈良盆地に成立したと考えられている。前方後円墳には、畿内から吉備(山陽)、筑紫(北九州)など各地の墓制(→弥生時代の墓制)が採り入れられているため、これらの地域勢力が連合し、統一的な政治勢力となったことの反映だとされている。最初の前方後円墳は、3世紀前葉?中葉に出現しているので、ヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力だが、この時期はまだヤマト王権に先立つ王権の段階(プレ・ヤマト王権)だったとする見解もある。
各地域の勢力が連合して、ヤマト王権となっていく過程はまだ解明されていない。弥生時代後期に倭国王だった卑弥呼を中心とする政治勢力(邪馬台国)が、各地の勢力を服属させ、もしくは各地の勢力と連合して、ヤマト王権を築いたとする説のほか、邪馬台国を滅ぼした別の勢力がヤマト王権となったとする説などがある。遅くとも、3世紀中ばまでにヤマト・吉備・筑紫などの諸勢力が糾合し、初期ヤマト王権が形成されたと考えられている。
ヤマト王権の王統についても、複数説が提出されている。卑弥呼?壱与の王統を継承しているとする説、壱与で王統が断絶し新たな王統が発生したとする説、初期ヤマト王権の王位は世襲ではなく有力豪族間で継承されたとする説、初期の王統は途中で断絶して4世紀前期ごろにミマキイリヒコ(崇神天皇)が新たな王統を開始したとする説などがある。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)
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